遠藤捨三の世界

こちらは、空き地の詩人・遠藤捨三の愛好家(好事家)のための会員制ブログです。

「一般人」という群衆。

 子どもがヒーローの真似をしたり、アイドルの真似をしてごっこ遊びをします。大人でもブルース・リー高倉健の映画を観た人が、肩をいからせて映画館から出て来くる現象があります。その気になるわけです。実像と想像のすり合わせが出来ない。ピントが合っていない。理解・認識という学習で向上していく力以前の、基本的な認知力が低いというか、ぼんやりと鈍い。感性が鈍い状態。では、感性とはなんでしょうか。それは、機微を見分ける力、違いを感じ取る力です。お洒落な人は一見同じ白いTシャツでも生地の質感やラインなど、細かいところの違いを気にしています。


 自分の現在地を意識せず、ブルース・リーと自分の間の大きな差異が意識に登らないため、トレーニングすらせずに「真似」に没頭するようになります。自分の中に取り入れるときに、修正を加えたり、段階を経たり、プランニングが出来ない。「 鵜呑みにしてしまう」ということです。


 また、コロナ禍において「マスク警察」が現れました。戦時下の「婦人会」など、お上の「鬼畜米英」「お国のために命を捧げよ」というというプロパガンダに同調して「非国民」を糾弾するおかしな人たちによく似ていました。


 物事をよく考えず鵜呑みにしてしまうのは、いわゆる「一般人」、マジョリティーの特徴のひとつです。とくに権威、影響力を持ったものに同化します。カンフー・スターに感化され、基礎的な練習もせずポーズを決めたり、それっぽく振る舞って気取るのも同様です。湘南の海では初心者サーファーがうんちくを語っています。いわばインスタント感化、短絡思考とも思考停止ともいいます。フランスの医師、ギュスターヴ・ル・ボンは、著者『群衆心理』で、集団になったときに人間は理性を失って暴走していくこと、集団としてのパーソナリティーにすり替わって個人のモラルが失われることに警鐘をならしました。


 平等が叫ばれた時、徒競走に順位をつけない幼稚園が報道されました。騒音が問題になると、イヤホンを使った無音盆踊りという異様な祭りの報道がありました。そういう意味ではないのではないか、それは平等ではないのではないか、という違和感がありました。公園のボール遊びや近隣の保育園、地域の盆踊りは「騒音」でしょうか。騒音クレームに感化されて便乗しただけのわがままにしか思えません。耳栓など個人の工夫で対応するべきところでしょう。なんでもクレームとして圧をかけるのは横暴に感じます。


 また、例えば「叱らないしつけ」「がんばらないでいい」という言葉が流行した事があります。結果として不登校児の増加や小学生の読解力の低下という問題が起きました。読解力、人の気持ちや表情を読み取る力というのは、親が不快感を示さなければ学習されないそうです。「頑張らなくていい」というと、頑張るべきことを頑張らなくなる子どもも出てきます。本来は、鬱になったり、自分を疲弊させてまで、度を超えて頑張りすぎないでいいという意味です。いやそういうことじゃなくて、といいたくなる場面をよくみかけます。震災時の「絆」にも違和感を覚えました。隣にどんな人が住んでいるかも知らないような世の中、近隣の人と挨拶もしない社会で、なぜ被災者にだけ絆を感じるのかよく分かりません。もっと身近に苦しんでいる人たくさんいると思うので、まず無理解や孤立、貧困や差別で苦しんでいる友人や同僚がいないか普段から気にしてあげて欲しいです。


 介護も同じです。みなさんなぜ介護を受ける準備をしているのですか?生き物はみないつか死を迎えます。人間もまた、床に伏してしばらくして亡くなっていきます。介護を受けて寝たきりで10年生きる動物はいません。逆に10年生きる力があるなら、リハビリをがんばって社会復帰すればいいのにとも思います。10年間介護を受ける資金って本当に必要なのでしょうか。はたまた、年金生活者が「生涯現役」をスローガンにウォーキングしていますが、それも私には分かりません。労働をやめてウォーキングを付け加える意味がです。そもそも生き物は生涯現役で労働、捕食行動をして、寿命がくれば死んでいくものです。やれ年金だ、保険だ、生涯現役だ、介護だ、人生100年だ、老後資金だ、、支離滅裂ですよね。水面下にある意図は、分母の多い高齢者を狙った票集め、ビジネスしかないでしょう。


 たくさん例を挙げました。枚挙に暇がありませんがこれが「思考停止」というものです。権威や周囲の多数派にすぐ同調してしまう。自己防衛本能のひとつなのでしょう。それ自体は別段悪い事ではありませんが、
この続きを読むには
購入して全文を読む

文学散歩のススメ。

 市や県、行政の広報でも文学散歩はよく見られ人気のようです。私自身、作家のゆかりの地を散策するのが好きです。鎌倉の隣りに住んでいますが、鎌倉文士というと、川端康成芥川龍之介大佛次郎、里見弴、小林秀雄中原中也久生十蘭澁澤龍彦、、と錚々たる顔ぶれで、引っ越して来た当初は浄智寺の澁澤家の墓にも参りましたし、瑞泉寺の山崎方代の歌碑も見に行きました。夏目漱石の『こころ』で主人公と先生が出会うのも鎌倉の由比ヶ浜ですし、江戸川乱歩の名作長編『孤島の鬼』で海水浴客の中で探偵が殺されるシーンも由比ヶ浜海岸です。


 私は文学以上にロックやパンク、ブルースなどの音楽が好きで、自分でもバンドをやっているのですが、ゆかりの地、聖地巡礼、あるいは関連グッズ、というともっぱら文学モノなのです。江戸川乱歩の眼鏡を写真をもとに再現したり、宮沢賢治の『春と修羅』初版の表紙のプリントされたトールグラスなども持っています。


大好きなキース・リチャーズのピックはべつに欲しいと思いませんし、鋲のついた革ジャンを着たいとも思いません。先日は大正時代に流行ったような角袖のコートを買いました。内田百閒は袂に文鳥を入れて、漱石の木曜会に出向いたそうです。私も荷物を袂に入れて出かけてみました。自己分析してみましたが、

この続きを読むには
購入して全文を読む

スケートボード、ロック、ロマン主義、etc。

 スケートボードの映像作品を観ていると、身体表現によるアートを観ているような気分になります。また、街の中の、行政の建てたモニュメントや公園の手すりをセクションに見立てて滑っていく様は、世間を嘲笑うかのような太々しさがあります。スケーターのよく使う「アティチュード」(態度)というワードがありますが、そこには生き方の哲学、何某かに対してどんな態度を取るかという明確なメッセージを読み取ることが出来ます。ロックやパンク、あるいは19世紀のロマン主義と同じ、権威や常識に反発し、自由を叫ぶ態度です。


 2020年の東京オリンピックスケートボードは正式競技になり、堀米悠斗が金メダル、女子でも西矢椛が金メダルを獲得し注目を浴びました。私自身、スケートボードが大好きなのですが、競技スポーツとしてのスケートボードが持て囃され、スケートボードパークのランプを親子連れが占拠するようになった様は、正直何か他人事のように感じました。


 私の好きなスタイルは、サーフィンから派生した、「オールドスクール」といわれるもので、低い姿勢でスタイリッシュに滑るものです。ジェイ・アダムス、トニー・アルバらのZ-boysや トミー・ゲレロ、ランス・マウンテン、トニー・ホークらを擁するBones Brigadeの時代、カービングからランプ、プールくらいまで、です。その時代もコンテストはありました。ドキュメンタリー映画『DOGTOWN & Z-BOYS』の中インタビューシーンで、ジェイ・アダムスが、「楽しく滑ってたのに、みんなだんだんマジになって来てつまらなくなった。」と話しています。映画『LORDS OF DOGTOWN』でもスポンサーがついて、コンテストに出場しまくるシーンが出てきます。そこでもジェイは一抜けで、不良仲間のところに戻って行きます。

Z-Boysのジェイ・アダムス(左)とトニー・アルヴァ(右)


 後ろ足のつま先でボードを叩き、前足で板をしゃくり上げてジャンプする「オーリー」が流行してから、

この続きを読むには
購入して全文を読む

自然観察GO。

 インドア派の運動や外出のきっかけにもなるとして、また仮想現実を用いた『ポケモンGO』は人気を博しています。 Wikipediaによると「スマートフォンGPS機能を使用しながら移動することでポケットモンスターキャラクターの捕獲・育成・交換・バトルを画面上でプレイ可能。」とのことで、ストーリーは「ゲーム中の世界には、不思議な生き物がたくさん生息している。これらの生き物は総称して「ポケモン」と呼ばれている。 〜 中略 〜 プレイヤーはポケモントレーナーとなり、現実世界を歩いて探索し、ポケモンを捕獲・育成・バトル・交換などを行う。」とあります。


 これって何かに似てませんか?やってること昆虫採集と同じですよね。私も子どもの頃、クワガタを捕まえて飼育したり、友達のクワガタとバトルさせたり、交換したりしました。


 私は自然が好きで野鳥や昆虫の観察をしていますが、ポケモンGOのユーザー集団を見たとき、この人たち野鳥観察に向いてるんじゃないかな、と思いました。私も野鳥観察、バードウォッチングを始めるまでは、分かるのはスズメ、カラス、ハトくらいで、他は「鳥」とか「小鳥」とだけ認識していました。きっかけは、カメラマンの友人に、新発売だったデジタルスコープという望遠レンズの講習会に誘われて参加したことでした。望遠レンズを通して観た野鳥の、餌をついばむ仕草のかわいいこと!興味の出た私は早速、持ち歩きしやすい小さな図鑑を買い、地元の自然公園に通うようになりました。

この続きを読むには
購入して全文を読む

ゼロ成長で豊かに暮らす。

 幼少期、父の給料が手渡しだったため、テーブルの上に置かれた給料袋を見たことがあります。当時30代半ばだった父の月給は「36万円」と書かれていました。その記憶がずっと残っており、30歳になるころには月給30万円くらいもらえるものと思っていました。しかし、私たち整骨院や整体業界では、30過ぎようが40になろうが、雇われである限り月給は20万前後が相場でした。なんとか1万円給料を上げようと頑張ると、いわゆるブラック的な働き方になったり、妬んだ同僚から嫌がらせをされたりし、それでも給料は上がりませんでした。


 40歳になり、人生を80年と考えると折り返しですから、もう「給料が上がって余裕が出来たら◯◯をしよう。」という考えをやめようと思い、ゼロ成長ベースで考えて今現在出来る範囲でやりたいことやろうと考えました。例えば、音楽が好きで30代の始めまでバンドをやっていた私は、「仕事に余裕が出来たらまたバンドをやりたい。」と思っていましたが、今現在出来る弾き語りの形でライブ活動を始めることにしたのです。


 一方、借金をしてなんとか独立し、整骨院を運営していたとき、ビラ配りやポスティングなどの宣伝や広告を打って集客をしていましたが、「売上げを1万円上げる」のと「経費を1万円下げる」のは結果として同じことだと気付きました。しかも経費を下げる方が、

この続きを読むには
購入して全文を読む

哲学とは何か。

 哲学とはなんでしょうか。「経営哲学」とか「あの人は哲学を持っている」といった使い方の場合は、単に括弧とした自分の考えやビジョンを指しています。学問の世界では、古代から現代の「哲学者」の著作の批評を哲学と言っています。自分の考えはむしろ排除して批評しなければなりません。おかしな話しですが、「それは君の考えだろう」という批判を受けます。


 私は文学部の哲学科でしたが、自分の哲学は考えさせてもらえませんでした。私は大学生当時、とにかく自分の考え、価値観を構築したかったので、やけくそになって卒論でプラトンの『ティマイオス』というムー大陸の著述の出てくる宇宙論的な著作にこじつけて自分の哲学を展開し、教授に「君は大詩人か何かか」と呆れられる結果となりました。


 当時はポストモダンニューアカデミズムの時代で、柄谷行人浅田彰が大流行していました。彼らの文体はこうです。

「〇〇は著書『△△』において〜〜と述べている。」

「つまり〇〇は□□に関してこのように述べているのである。」

「それはあたかも◎◎であり、◆◆ということなのである。」

客観的に論理を積み重ねていくような論調で、それは大学の授業で求められる答えや論文も同様でした。柄谷行人浅田彰は哲学者でしょうか。彼らの著作での紹介文は「哲学者」ではなく、「批評家」という肩書きだったと記憶しています。


 では哲学者と批評家の差はなにか。

この続きを読むには
購入して全文を読む

オカルトとは何か。

 オカルトという言葉はラテン語の「隠されたもの」に由来しています。オカルティズムは日本語では「隠秘主義」と訳されます。では、何に対して隠された何のことなのでしょう。


 オカルティズムの源流として、グノーシス主義と言われるものがあります。グノーシス古代ギリシア語で「認識・知識」を意味します。神と宇宙観のひたむきな探求、とでもいいましょうか、政治権力や利権から隔離された、純粋な意味での哲学、民間思想です。グノーシス主義は1世紀に生まれ、3〜4世紀にかけて地中海世界で勢力を持ちました。


 ユダヤ教からキリスト教が自立して以来、様々なキリスト教の宗派が生まれていました。紀元2世紀から3世紀頃には、キリスト教をベースにしたキリスト教グノーシスが流行しましたが、308年にキリスト教ローマ帝国の国教に制定され、「三位一体性を信仰しない者は、異端と認定し罰する」という勅令が発せられました。グノーシスは異端とされたのです。国家統制による思想の弾圧が始まったわけです。思想と表現の自由が抑圧され、歴史的な芸術や文化的な創造物が極端に少ない5世紀から10世紀にかけて、中世前期はヨーロッパの「暗黒時代」と呼ばれています。世界史の授業では、突然イスラム圏やアジアの講義に切り替わりましたよね。キリスト教会の支配力が強まり、地下に「隠され」ながら綿々と息づいていた思想・文化がルネサンス期に噴き出し始めるまで、史上に残るトピックの芽は摘み取られていたということです。


 問屋制家内工業から、マニュファクチュア(工場制手工業)、工場制機械工業へと発展して来たヨーロッパでは、18世紀末から19世紀末にかけて、合理主義への反動としてロマン主義運動が勃興しました。「オカルティズム」という言葉は、パリの小ロマン派の文芸サロンに出入りしていたエリファス・レヴィというフランス人が提唱した言葉です。レヴィは、カバラ錬金術、ヘルメス信仰といったグノーシスの知識をまとめ、「魔術」として近代ヨーロッパに復興させました。魔術を意味するmagicという英語は、古代ペルシアの宗教、ゾロアスター教の司祭「マギ」(Magi)から派生した言葉です。マギは薬学や化学、あるいは数学の知識があり、彼らの行うパフォーマンスは一般人にとっては魔法のようなものでした。マギの行っていたマジックは現代においては、科学と呼ばれています。

この続きを読むには
購入して全文を読む