遠藤捨三の世界

こちらは、空き地の詩人・遠藤捨三の愛好家(好事家)のためのブログです。

料理と反体制。

 若い頃から権力に対する反発心がありました。ロックやパンクに傾倒し、50歳を過ぎた今でもバンド活動を続けています。「食っていくためには…」とか、「食っていけない。」という言い方をしますよね。単純に、充分に金を稼がなくては生きていけない、という意味ですが、別段金を稼がずとも、あるもの、買えるものを調理をして食っていけばいいのではないですか?私は今、バンドで食ってはいませんが、バンドをやりながら食って楽しく暮らしています。

 「どこか優良会社の正社員にならなくては食べていけない。」という思い込みがあります。本当にそうでしょうか。もともと近代化以前は「会社」なんてありません。有史以来、人間は本来どうやって生きて来たのか、人間本来の生活をしたい、というのは長年の私のテーマでした。

 庭に自生している赤紫蘇を、シロップ、ゆかり(ふりかけ)、しば漬けに調理しています。9月に入ればさらに、紫蘇の実の醤油漬けが楽しめるでしょう。ほかには、モロヘイヤ、唐辛子、シシトウ、三つ葉、などがあり、どれも納豆ご飯と味噌汁によく合います。秋は柿がなるので、デザートに食べたり干し柿にしたりします。家は安物件を買って持ち家なので家賃もありません。要するに食っていけるんです。なんの不安もありません。

 物を買わないというのは、サラリーマンという兵隊を育てて、マーケットという戦場に送り出すことで稼いでいる権力者(税収や株価で稼いでいる権力者)に対して、痛烈なボイコットです。企業の売り上げにも貢献しませんし、消費税もかかりません。

 権力はだいたい、生きることに不可欠なもの、食・不動産・エネルギー、そして医療(健康)を傘に市民を脅します。やれ食料危機だ、石油不足だ、CO2だ、ウィルスだ、。でもうちは関係ありません。電気がなくても火をおこして煮炊き出来ますし、食材もたくさんあります。車も乗りませんし、健康診断も受けません。将来介護を受けるつもりもありません。自然が好きなので、死ぬのも自然がいいと思っています。

 調理の知識や技術があると、「食えるもの」の幅が格段に拡がります。べつにスーパーやコンビニで金を出して買わなくても食べられるものはたくさんあります。塩があれば様々な食材がおいしく食べられます。脅されても慌てる必要がありません。

 税金を納めたり、保険料を支払ったりするのに、現金収入は必要ですが、それにしても国家権力が機能しているからであって、国家という枠組みがなければ必要ないですね。野生動物、野鳥や昆虫は国家がなくても生きてます。人間だけなぜ国家が必要なのでしょう。インフラも近くに川があればなんとかなりそうです。そもそも近世以前はそんなものです。水源の近くに村や都市が出来、文化が発展しました。やれ戦だ侵攻だで国取りゲームをしたがる人はいたでしょう。近代化、自由競争でマネーゲームをしたがる人もいるでしょう。私たち付き合う必要ありますか?私が行っているのは、国家に依存せず、自立して生きるということです。

 生きている限り国民としての義務が生じる世の中ですが、必要最低限、義務を果たしたら、あとはもう付き合う必要ありません。日々やりたいことをやって、食材を調達して料理をし、「食って」いけば貴方は無双状態なのです。

 

ふたりの「おばちゃん」の話し。

 若い頃、二度転機がありました。二度とも「おばちゃん」が救ってくれました。一度目は高校時代。私の母校は私立の進学校で、2年生から私立文系・理系、公立文系・理系とクラスが分かれるシステムになっていました。当時、吉村作治教授率いる早稲田隊がピラミッドの新しい部屋を発見したこともあり、私は古代エジプト、ピラミッドや王家の墓のロマンに惹かれて考古学を志し、「私立理系コース」を選択していました。

 私立理系の試験科目というと、英数理。国語と社会の授業をまともに受けようという生徒はいませんでした。先生の方でも事情を理解しており、生徒がやる気のないのを前提に、生徒が飽きないよう、まるで小学校の道徳の時間のような、のびのびとした楽しい授業をやってくれていました。それに乗じて悪ノリし、大喜利のように思いつくことを連発していた私を、「おばちゃん」というニックネームの女性の先生が「あのこは才能がある」と評価してくれたのです。友達から「おい、おばちゃんがおまえのこと才能があるって言ってたぞ!!」と聞きました。私はその気になって、3年生になる際に、理系から文系に切り替えました。

 その後、大学の文学部に進んだ私は、音楽サークルでバンド活動に打ち込みました。R&Bのカバーバンドでギターを担当していましたが、どうしてもオリジナル曲をやりたくて、自分のバンドを組みました。しかし、生来内気な私は大声の出し方も分からず、あれこれ悩んだ末にボーカル教室に通うことにしました。当時、社会人一年生。会社の寮の近くに見つけた、声楽科出身の女性が自宅でやってるボーカル教室でした。当時40代だったでしょうか、20代の私はその方も親しみを込めて「おばちゃん」と呼んでいました。

 「なんだそれは⁈」「技術に集中しろ‼︎」などと、なかなか厳しい指導でしたが、私が営業職に嫌気がさして退職し、教室もやめ、実家に戻って転職活動をしていた際、母から「おまえ、音楽教室の先生っていう人から電話があったよ。あのこは才能があるから、仕事を見つけて音楽を続けるように伝えて下さいって。」とビックリした顔で告げられました。私は父はもとより母からも「おまえに才能なんかあるわけないんだから早く就職しろ!」などと言われていたので、ずいぶん励まされました。

 母も父も失い、50歳を過ぎた今でも、やはり音楽が好きでバンド活動を行い、音楽界隈で人と関わりながら楽しく幸せに生きています。転機を作ってくれた二人の「おばちゃん」、不行き届きで今では消息もしれませんが、時折り思い出しては思いを馳せ、感謝しております。自分も二人の「おばちゃん」のように、若い人の励みになれるように生きていきたいと思います。届くかどうかわかりませんが。この場をお借りして。

「善意の強制執行」お断り。

 行政に依頼されたボランティアを名乗る女性とBBAが突然やって来て、去勢してすぐに返すので猫を捕まえていいですか?という。妻が対応に出たのだが、突然で面食らって断れなかったらしく、母猫連れていかれちゃった、というので、連絡先を訊いてすぐ戻すように要求しました。

 同じ愛猫家にせよ保護猫団体にせよ、それぞれ考え方に違いがあるでしょう。人によって思いや問題意識、折り合いのつけ方が違うと思います。ひとりよがりな使命感で自分の考えに従わせるというのはいかがなものか。他人の考え方や大切にしている存在に手を出さないで欲しいです。私たちは私たちで、これからどんどん増えるであろう猫の話しは、来年の繁殖期までには里親探しを始めた方がいいのではないかなどと、普段から妻とあれこれ話し合っています。

 「自分は個人の気持ちや思いやりを大事に考えている、十羽一絡げ、頭ごなしではなく、個人の考えを尊重して欲しい、少なくとも即答できるような問題ではないので、とりあえず一旦母猫を返して欲しい、」ということを伝えました。しかし、あれやこれや聞いたふうな「正論」をぶって、こちらを説き伏せようとして来ます。話しの矛先をコロコロ変えてのドヤ顔正論。暑いし、買い物に出かけるところだし、。

 私は弁が立つばかりでなく、圧もかなり強いので笑、幸い奪還出来ましたが、みなさんどうでしょう。うちもあのとき私が出かけていて妻がひとりだけだったとしたら、これを書いている今は母猫はすでに去勢されていると思います。善意の押し付けって恐ろしいですよね。話しはやや逸れますが、日本では過去に身体障害者を「障害を持った子どもが生まれたらかわいそうだ」という理由で、去勢手術を強制していたという事例もあります。それ自体がいいか悪いかではなく、相手の気持ちや意志を尊重せずに、一方的に取り返しのつかないことをやってしまうということがモラルに反していると感じるのです。

 ゆくゆく自分たちで去勢手術の決断をするかもしれません。夫婦で時間をかけてじっくりと考えたいと思っています。我が家で餌を食べるようになってから1年、名前をつけ、子猫が生まれ、子育ての光景には感動しました。情も移っていますし、現在7匹いる猫は、間違いなく私たち夫婦の宝ものです。「下のお家から猫が増えてしょうがないので去勢の依頼があった」とのことです。そのお家でそういう判断をしたならうちが反対する立場ではないですが、「上から降りて来たらまた増えるから」などと苦し紛れに意味不明なことを言われました。そのお家の猫が去勢されていれば増えようがないですよね。そもそも私は赤の他人と正解のない善悪正誤の議論をするつもりなどありません。自分の考えがあるので尊重して下さいとお願いしているだけです。

 最終的に私がカッとなったのはBBAが「分かりました。次からはそうしますので、今回だけいいですか、もう捕まえちゃったので、」という発言です。久々に怒鳴ってしまいました。

 私は人の考えを聞くの好きなのですが、議論は好きじゃないんです。立場も経歴も環境も違う人の共通の答えなんてありませんから。似たような考えでも、それぞれみんな違うと思います。「間違ってる」ではなく、その人は「そういう考えの人」です。主張の弱いやさしい人や論理が苦手なおおらかな人もたくさんいます。そういう人の思いやりも、大切にしている気持ちも、論破されたら支配されるっておかしくないですか。

ま、たかが猫の話しなんですが。。苦笑

ヒューマノイド⁇

 家庭用ヒューマノイド、人型ロボット、もう買えるそうです。日本でも、トヨタ、ソフトバンク、ホンダ等、大企業が開発を進めているそうですが、今現在海外サイトで大衆車一台分くらいの価格で販売されているそうです。ロボット掃除機やアレクサのように、徐々に浸透していくのでしょう。私は気持ち悪いと思いますが、ロボット掃除機やアレクサ、あるいはSiriなどを便利に感じ、使いこなしている人はやはり買うのでしょう。

 ロボット掃除機が発売されたとき、正直笑ってしまいました。掃除機をかけるのそんなに手間か?と。個人的には箒が好きなので掃き掃除をします。「アレクサ、電気つけて!」「アレクサ、あの曲かけて!」「天気教えて!」に至っては、虚脱感といいますか、馬鹿じゃないのと思いました。AIも同じ。専門業の方が道具として使うには便利だと思いますが、。

 起きたら布団を上げる、歯を磨く、髭を剃る、、日々のルーティンで次の作業に弾みがついていきます。休日の掃除や洗濯も1日のメリハリをつける労働であり、気分転換です。結構大事だと思うんですよね。洗い物して、コーヒー入れて、午後の予定考えて、、みたいな。ぜーんぶヒューマノイドがやってくれて、自分はずっとスマホ見てるんですかね。ボケますよ。スマホ脳とかいいますけど、最終的にはスマホと同化するらしいです苦笑 一度きりの人生、スマホになりたかったんですかね笑笑

 いずれはスマホも検索エンジンも要らなくなり、すべてヒューマノイドに言えばやってくれるようになるのだそうです。そうなると人間はなんですか。介護を受けているような形で身の回りの世話をヒューマノイドにやらせ、自分は動画を観たり音楽を聴いたり、モンスターハンターに興じたりして毎日を過ごすのでしょうか。コミュニケーションもヒューマノイドで充分でしょうか。ヒューマノイドとゲームをしたり、会話をしたりして、友情を育んだり、ヒューマノイドに感謝したり、恋をしたりするんでしょうか。

 自分でやる、って大事です。近年は親が未然に子どもの体験を奪ってしまうようになりましたが、経験上、家事であっても趣味であっても、自分の力でやり遂げなければ自尊心は育まれません。

 分からないんですよね。洗濯は重労働だと思いますよ。洗濯機はあった方が断然楽です。食品の保存も夏場は厳しいので冷蔵庫もあった方が断然いいです。掃除機は、、私は要りません。食洗機も4Kテレビも要りません。

 稼ぐためのビジネスではなく、人間としての日々の労働ってあります。衣食住に密接な労働です。食材を調達し、調理して食事をする、掃除や洗濯で住環境を整える、家族や友人とともに過ごす、影響し合う、入浴やシャワーで身を清めリフレッシュする、寝床を準備して就寝する。生きるために労働するのか、労働するために生きるのか、卵が先か鶏が先か答えを出すまでもなく、そうして生命は成り立っています。生きるために必要な労働を、ヒューマノイドにやらせて生きる⁇で、あなたは何をして生きるのでしょう。動画を観たりゲームをしたり音楽を聴いたり、刺激を受けるだけ⁇、。

 やりたいこと、なりたい自分、人間的な成長は⁇結婚はしたいですか?子どもは欲しいですか?子どもには幸せになってもらいたいですか?早く自立して、ヒューマノイドに身の回りの世話をやらせて、刺激を受けるだけの大人になってもらいたいですか?それともやっぱり面倒が多いからヒューマノイドと結婚するのが1番ですか?思いっ切り怠惰に刺激だけ貪って過ごせたらそれは自己実現でしょうか。それって人間らしいですか?人としての体をなしていますか⁇欲望垂れ流しで気持ち悪いです。

 同時に、コンビニのレジや飲食店の接客で、礼儀もへったくれも無いパートの不機嫌BBAなどは早くヒューマノイドにとって代わって欲しいです。すでに2028年の実用化に向けてセブンイレブンも動いているそうです。利己的で怠惰な人間は、ヒューマノイドの介護を受けて自宅で好き放題やってもらい、街のサービスはテキパキと動くヒューマノイドが担当することになった方がいいのかもしれません。ヒューマノイドが利他的で勤勉ならば、それはそれで怠惰で頑張れない人間よりも「人間的」と感じられるでしょう。冷たいようですが。。でも人間てなんでしょうか。成長する喜び、感謝、、それを勝ち取る努力は、いずれにせよ人間にとって必要なものなのではないでしょうか。

常備菜の愉しみ。

 自然が好きで、野草を採って天ぷらにしたり、サラダやおひたしにして酒のつまみにしていました。同時に、食費の軽減につながらないかと、残り野菜を使ったレシピを考えたりしていました。

 私の中の縛りとして、あるものだけで作るというルールがあります。よほどのことがない限り、食材を買いに行きません笑 カレーを作るために、肉がなければチーズやシーチキン、豆類を使います。「家庭内サバイバル」と称してゲーム感覚でやっております。

 週に一度、私の食事当番の日があります。ナポリタン、オムライス、チャーハン、スパイスカレー、等等、だいたいワンプレートでレパートリーも少なかったのですが、テレビの自給自足家族の番組で、納豆、キムチ、食べるラー油、など食卓に並んだおかずを各自でとってご飯にのせて美味しそうに食べているのを観てハッと気づきました。今まで酒のツマミとして作っていたものを「常備菜」として作り置きすればいいのだと。

 日本の主食は米です。メインディッシュである米をたくさん食べるために塩の効いた漬物や汁物を添える、これが一汁一菜の基本です。ご飯を炊き、味噌汁を作り、いくつかの常備菜とともに並べれば、豊かな食卓の出来上がり。また、妻も自分の料理に合わせて、私の作り置いた常備菜を出してくれるようになりました。ろくに家事もやりませんが、役立っているような気分になって嬉しいです。現在、定番となっているのは、玉ねぎとにんにくのマリネ(あればトマトと茄子も)、もやしのナムル、葉物野菜のおひたしなど。今日も晩酌のツマミがてら、残り野菜で常備菜を仕込もうと思っています。

 

介護、必要ですか⁇

 高齢社会の到来により、ビジネスチャンスとして介護施設が作られ、介護保険料が徴収される世の中になりました。事故や脳梗塞等、先天的にハンディキャップを負った方は介護が不可欠でしょう。しかし、戦前、戦後復興、高度成長期、、後遺症もない健常者で介護を受けて生きていた人はどのくらいいたのでしょうか。

 人間は死に際して、「脳内モルヒネ」が分泌され、苦痛を感じることなく死ねるように出来ているそうです。「食が細る」というのも、いたずらにエネルギー補給をして苦痛な時期が長くならないように出来ているようです。スウェーデンなど延命治療を「虐待」と定義している国もあります。

 犬や猫であっても、可能な限り生きていて欲しいと望むものですが、私は愛猫の延命も自分たちのエゴであって、猫のつらい時間が長くなるだけだという思いから諦め、残された時間を大切にする選択をしました。

 私は健康診断さえ受けていませんが、末期ガンになったり何かあった際は、寿命を受け入れる覚悟を決めたいと思っています。いつ死に際しても怖いものは怖いと思います。寂しさや悔いがなくなることはないでしょう。

 言ってしまえば老人ホームもデイケアも延命治療も介護保険も、「ビジネス」でしかありません。苦痛のない、自然な幕の下ろし方を考えると、介護も延命治療も受けず、精一杯労働して力尽きるのが一番ではないか思います。

 介護保険、ガン保険、老後のための貯蓄、健康診断、、本当に必要ですかね。私は死ぬのは怖いですが、逃れようのないことを先延ばしにするために経済的負担をするような、無意味な苦労をしたくありません。面倒くさいです。

滋味は地味なものである。

 バラエティー番組を筆頭に、テレビの地上波放送を観ることはほとんどなくなりました。歳を重ねたせいもありますし、近年常態化した「ひな壇芸人」「テロップ」など、主張が激し過ぎて草臥れてしまいます。

 70年代〜80年代、高度成長期の時代は子どもに夢を与え、家族で楽しめるような温かいドラマやお笑いが多くありました。経済が悪化し、物が売れづらくなくなったこともあると思いますが、商品とタイアップアニメやドラマ、商品ありきの作品が作られるようになったと思います。

 各社、各メディアのアピール合戦がエスカレートすれば、受け手の側は感化されていきます。「超」「ヤバい」「激」「鬼」「神」、と表現は強勢ばかり目立ちます。食の世界も、激辛から始まり、背脂や鰹の粉末を加えたラーメンなど、強く濃いものが人気です。

 鰹の出汁は一般的ですが、出汁の中ではかなり強く、素材の味が鰹の風味に負けてしまうため、和食の世界では敢えて鮪の出汁を使ってメインの素材を引き立てることもあります。

 滋味、体に滋養が五臓六腑に染み渡るような旨味は、刺激の強いものではありません。滋味をより多く摂取するために、食欲を増進するスパイスが珍重されました。つまり、スパイスそのものより、スパイスを加える素材が大事なのです。栄養のないものを多く摂取することは、肥満、糖尿病、高血圧など多くの病気の原因となります。

 話しを戻しましょう。要するに宣伝PRは必要ですが、大事なのはその中身だということです。過激な表現や過剰な主張は内容を損ないかねません。中身が自己顕示欲だけしかないのは論外です。

 どの分野にも、先人が築き上げた伝統や、体系化された「基礎」があります。現在は過剰な刺激に感化された、素地のない人が、切り口勝負でマーケットに参入してくることが増えた気がしています。私は手間暇をかけて誠実な仕事をする人が好きです。必ずしもコンサバティブ、伝統的ということでもありませんが、基本に忠実にオーソドックスに作り上げたものを絶妙に崩して息を吹き込むことは、手練れの職人でなければ出来ないと思います。緊張感のある仕事にはとても良い刺激を受けます。