遠藤捨三の世界

こちらは、空き地の詩人・遠藤捨三の愛好家(好事家)のための会員制ブログです。

技術革新と怠惰な日々。

 プロメテウスが人間に火を与えてから久しい(笑)ですが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A6%E3%82%B9)、人間は道具の使用とともに進化して来ました。火を使って肉食や煮炊きを可能にし、記号を用いて複雑なコミュニケーションや論理の構築をし、科学や物理学を発見、それを用いて建築、上下水道、航海術、蒸気機関など創造して行きました。貨幣の発明、農耕や貿易の技術革新と、経済は活性化し、生活水準は向上しました。現代は、誰もがスマートフォンを持ち、車は一家に一台はもとより、一人一台、という時代です。


 便利な世の中になったと思います。私個人の生活だけ振り返っても、待ち合わせのすれ違いに、昔は駅の伝言板を使っていましたが、今はスマートフォンがあれば詳細に約束をしなくても大丈夫になりました。友達はSNSで常に繋がり、海外にいる友人さえコミュニケーションが途絶えることはありません。


 我々の祖父母の世代、戦中派世代までは、炊飯器も洗濯機もありませんでした。火をおこし、薪を焚べて米を炊き、井戸水で洗濯板でこすって洗濯です。近年は、掃除機はおろかロボット掃除機まで出てきました。炊飯も洗濯も掃除も自動になった時代で、専業主婦が忙しい忙しいと言うのはなぜでしょう。ワイドショーのゴシップでネット上で盛り上がっている人の中に専業主婦もいらっしゃると思います。気持ちが忙しいのは心が貧しいからではないかと思ってしまいます。


 最も私が懸念しているのは車事情です。以前は通勤や営業、あるいはレクリエーションの道具として自家用車は使われていたと思います。家族旅行はもちろん、車で友人や彼女と出かけるときなどはカセットテープに音楽を録音して準備をしたり、わくわく華やかな気持ちになったものです。


 夢だったマイカーも、現在は高齢者による事故が多発する事態となっています。主婦と高齢者ドライバーが急増し、町の車の往来は引っ切りなしです。最寄りのスーパーやコンビニも車ですからね。かつて私たちをわくわくときめかせてくれた自動車が、いまや買い物用のカートや雨具のような存在になってしまったことを残念に思います。それはただの便利用品、楽をするためだけのものであって、人の心を豊かに、華やかにするものではありません。安全性や燃費効率などの機能ばかり優先した結果、現行車は外観まで魅力を失ってしまったように思えます。


 環境問題が取り沙汰されて半世紀経ちます。壊れつつあるのは自然環境だけでしょうか。こっちの方が便利なのだから使って当然、という態度にそろそろ疑問を感じてもいいのではないかと思います。車を始め、バイク、モデルガン等、趣味が多いことで有名なタレントの所ジョージさんは、番組の中で以前から「面倒くさいことか幸せなんだ。」とおっしゃっています。真理を突いた哲学的な言葉だと思います。料理研究家だった故土井勝先生の「愛情のこもっていない料理は餌である。」という言葉も同じような意味でしょう。便利さや楽をすることばかり追い求めると、手間暇をかける、愛情をかける余白がなくなります。


 昭和の地主の方たちは、私有地を「空き地」として子どもたちの遊び場に開放してくれていました。今は土地という土地は駐車場や賃貸アパート経営に回して小金を稼ぐ時代です。また、ドライバーは「道路は遊び場じゃない。」と子どもを戒め、自分たちは50m先のスーパー、コンビニ、あるいは、小学生が歩いて通える学区内の小学校まで車で行き来しています。なんだか情けなくなりませんか。子どもより大人が優先では、まるでマウンティングです。人間として恥ずかしいと思います。


 便利な世の中になったはずなのに、道を譲れない人や、人の間をすり抜けていくような人が逆に増えた気がするのはなぜでしょう。コロナ禍ではマスクやトイレットペーパーの買い占めが問題になりました。どうしてこうまで利己的になってしまったのかと首を傾げることが多いです。昔よりも便利で余裕が出来たはずなのですが。。


 所さんはまた「楽をしたいと言って、寝たきりで栄養も管で入れればいいわけだけれど、それで幸福ですかという話し…。」ともおっしゃっています。極端な言い方かもしれませんが、ロボット掃除機が普及し、自家用車の自動運転機能が取り沙汰される時代というのは、もはや

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