遠藤捨三の世界

こちらは、空き地の詩人・遠藤捨三の愛好家(好事家)のための会員制ブログです。

人生100年、精神が持たない。

 生きるにはロマンが必要です。夢、希望と言ってもよいと思いますが、やはりロマンです。ぼやぼやとした憧れのスタイル。女性のことはよく分かりませんが、男はたいてい30超えたくらいで、手に入れた入れないは別として、第一のロマンが終わりを迎えます。ひと段落つくのです。人間というのは贅沢なもので、たとえオリンピックで金メダルを取ったとしても、その充足感はいつまで続きません。次の挑戦、次のロマンが必要なのです。怪物と言われた競泳のマイケル・フェルプスは、オリンピックが終わる度に酷い鬱状態に陥ったといいます。

 


 戦国時代であれば、30歳でもう隠居ですから、ひとつのロマンを追いかけて一生を終えることが出来たと思います。現代は人生100年時代、寿命は戦国時代の3倍超になりました。それも老いてからが長いわけですから、プロスポーツ選手になるとかアイドルになりたいなどの若者が見る夢は選択肢から外れていくわけです。パイロットもキャビンアテンダントも無理でしょう。年齢制限もありますから、ほとんどの夢が見れなくなるでしょう。

 


 プロスポーツ選手などは引退が早く、セカンドキャリアを必要とする職業です。現役引退後指導者として食べていける人はいいですが、営業職など、全く異なる業種に就く人も多いようです。プロ野球の花形プレーヤーだった清原和博さんは、引退後薬物に溺れてしまいました。野球をプレーすることがすべてであったであろう清原さんが、プロとして野球を出来なくなったあと、野球に代わるほどの夢、ロマンを見つけることは困難だったに違いありません。

 


 私はバンドマンで、30歳になる手前に、ラストチャンスだと、プロになる意志のないメンバーとのバンドを辞め、仕事を辞めて半年ほど独りデモテープ作りに専念しました。そして作り上げたデモを、目に付いたオーディションや音楽事務所に送って2ヶ月ほど経った頃、つまり、やっぱりダメだったんだなと確信し始めた頃に、燃え尽き症候群のような状態で鬱に陥りました。

 


 夢や希望というのは主観的なもの、こればかりは自分自身で見つけなくてはなりません。抗鬱剤を飲みながら、いろいろと考えました。言ってみれば私にとってのセカンドキャリア構想でした。まず、気力のなくなってしまった状態では、頑張ることが出来ませんから、とにかく自分が好きなこと、やりたいことを模索しました。音響やCM音楽の製作など、音楽関係の仕事は嫌でした。1番好きなことに囲まれて、やりたいことの出来ない環境というのは、そのときは苦しすぎると感じたからです。結果、整体・カイロプラクティックという職業に進むことに決め、学校に通い直して社会復帰に至りました。

 


 整体師として独立を夢見て働いていた数年間は、仕事もやりがいがあり、新たな趣味としてサーフィンを始めたりもしてとても充実しました。当時、上司だったサーファーに勧められ、スケートボードも始めました。30歳を過ぎてからですから、だいぶ遅いですが、好奇心、向上心に溢れ、青春がまた来た!!という感じで、夢中になりました。近隣にスケートボードの施設を見つけ、通い、スケボーの板は増える一方、雑誌を読んだり、DVDを観たりして歴史も学びました。

 


 バンド活動に絶望していた私は今度はサーフィン、スケボーにのめり込んで行き、整体師として独立の夢も、好きな音楽をかけて仕事をし、空き時間にサーフィン、スケボーをしたいという一心からでした。

 


 ところが、独立し、大手資本のようにはうまくいかないことを思い知ることになります。わずか1年で整体院を撤退し地元に戻りました。整体師として突き詰めてきた自分に残されたモチベーションは、整形外科、医療分野の勉強をすることくらいでした。整体師は国家資格ではなく、整形外科に就職するのは通常は不可能なので、電話帳イエローページを開いて仕事の空きがないか、ダメ元で片っ端から電話しました。

 


 そうして得た整形外科の仕事で、午前と午後の診療の間、3時間の休憩にスケートボードをする自由を手に入れたものの、理不尽な虐め、パワハラに遭い、結局、2年で退職、改めて国家資格を取るために夜学に通うことになりました。資格の種類で差別などされたくないという想いと、保険治療が出来れば患者様の負担が楽になる、また、骨折や脱臼も治してあげられるようになりたい、という夢を抱き頑張りました。

 


 そうこうしている内に30代後半になり、就職の年齢制限に引っかかるようになりました。書類審査で弾かれて、面接さえしてもらえません。治療家専門の転職サイトを見つけ、後押しを受けて転職しました。

 


 40歳を過ぎるころには、雇用者と年齢が同じだったり、職場を転々としてきたことで、スキルやキャリアがそこの院長を上まってしまったりと、やはりなにかと対人関係で齟齬が生じ、コミュニケーションがうまくいきませんでした。例外的に開き直って居座ってしまった高齢の初心者整体師の方もいましたが、一般的なメンタリティーではなかなかしんどいと思います。

 


 とにかくサーフィンさえ出来ればがんばれる、ということで、妻に相談し、再出発を機に神奈川に移住しました。幸い妻も以前から海と鎌倉が好きだったので賛成してもらえました。その後、辻堂で独立するまでもいろいろありましたが、今回の趣旨とは関係ないので、その経緯はまたの回に譲りたいと思います。

 


 おかげ様で、10年に渡り念願の、昼休みにサーフィンをしながら働く生活を手に入れました。波のない日は近くのスケートパークでスケボーです。ところが、

この続きはcodocで購入