遠藤捨三の世界

こちらは、空き地の詩人・遠藤捨三の愛好家(好事家)のための会員制ブログです。

「食べること」と「労働」の乖離。

 どうやって食べていくか、何を生業として生きていくのか、悩んだり迷ったりして来た方も多いと思います。貨幣経済は、労働と、食料、衣類など商品を、お金を通して等価交換することで成り立っています。また、資本主義は、資本家が労働者を雇用し、労働の評価をして給与を支払う形態です。労働者個人がいくら頑張って、長時間働こうと、会社の利益率が上がらなければ、給料は上がりません。また、雇用者、あるいは直属の上司が評価しなければ労働価値は上がりません。その上、搾取というものがあり、下請け、孫請けの仕事となると、中間マージンの中抜きというのもあって、なかなか末端の労働者までは利益は還元されません。

 

 

 自給自足で農業を営む人たちは、口を揃えて「生きてる実感がある。」といいます。人間とて動物ですから、労働とは何かを紐解いていくと、食を得るための行為、つまり生きる、ということに行き着くと思います。野草や木の実の採取にせよ、狩猟にせよ、農耕にせよ、生き物として、食料を得るために労働するということは最も純粋な在り方だと思います。生きることとが食料を得て食べることであるとすれば、食べるための労働こそが生きることだと言うことが出来ます。ところが、食べることと労働の間に、「貨幣」という仕組みが介在することになると、とたんに様相が変わってしまいます。

 

 

 「等価交換」と言っても、人や時代によって価値が変わってしまうことが貨幣経済のややこしいところだと思います。物価はもとより、貨幣価値も不動産価値も常に変動します。そういった貨幣経済の特徴を利用し、投機や投資といった、金で金を儲けるようなことも可能です。大規模なマネーゲームを行って巨額の富を動かす人々もいます。「秒速で億を稼ぐ男」というキャッチフレーズの起業家がいましたが、なんのことはありません、ご本人も疲弊してやめてしまったようですが、為替のデイトレーダーでした。

 

 

 どうやら私たち人間は、食と労働が密接な方が、あるいはイコールな方が、生きている実感や充実感を得られるようです。逆に、現代社会のように、食べることと労働が大きく乖離すると、生きる意味や働く意義を実感出来なくなり、ストレスを感じるようです。朝から晩まで会社で働き、コンビニ弁当を食べて給料日を待つような生活は、生き物として健全には思えませんよね。活力が失われていって当然でしょう。

 

 

 狩猟や農耕に代わる、文化的な「生きがい」というものもあります。それらは食料を得ることと同じように、脳の報酬系を刺激し、満足感や充足感を与えてくれます。フロイト心理学では、何かに没頭するような衝動を、「思春期の性衝動の残存」と説明していますが、「生きがい」は、性や食という、自己、あるいは種の保存本能に起因する衝動の、昇華を担っているのです。

 

 

 結論をいうと、食べることで生きる私たち人間が、

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