遠藤捨三の世界

こちらは、空き地の詩人・遠藤捨三の愛好家(好事家)のための会員制ブログです。

「愛情のこもっていない料理はエサである。」(土井勝)

 私はギターの弾き語りをやっております。今回は私個人のライブパフォーマンスの悩みを考察してみたいと思います。読んでくれたみなさんにも何かのヒントになればと思います。


 ライブハウス界隈、パフォーマンス界隈というのは、インパクト勝負のところもあり、強烈なインパクトを与える派手なパフォーマンスが多く見られます。私もバンドでのライブの時は仲間と楽しくなんの迷いもなく大騒ぎしているのですが、弾き語りとなると少し違って来ます。


 私が弾き語りで表現したいのは、昭和の時代の風情です。風情というのは、季節の移り変わりのような「機微」のことです。激しくあってはもはやそれは機微ではなく、風情ではないのです。タイトルに料理研究家土井勝先生の「愛情のこもっていない料理はエサである。」という金言を使わせていただきました。近年は「激辛」「濃厚」、あるいは「〇〇産△△使用」など、インパクト勝負の商品が人気です。しかし、土井勝先生にとっては、食べる人の体調や気持ちを思いやって作るものこそが料理であって、そうでない大量生産の食事は「エサ」でしかないわけです。


 土井勝先生のご子息の土井善晴先生も著書『一汁一菜でよいと至るまで』の中で、「強い刺激は感性を奪います。」と述べています。風情の機微を感じ取るのはまさに感性のわけで、つまり強い刺激というのは、私が大切に考え、表現して伝えたいと思っている「風情」を台無しにしてしまうのです。


 戦後の日本は、GHQの指導を受け、独立国家といえども政治経済、文化ともにアメリカの影響を強く受けています。横文字言葉もずいぶんと増えましたが、日本語の使い方もアメリカナイズされ、強調として使う言葉が増えました。超、ヤバい、激、鬼、神、等等。。


 日本語というと、ひとつの意味合いにニュアンスの違った表現がたくさんある情緒的な言語のイメージです。例えば、「柔らかい」は、「たおやか」「しなやか」「おだやか」、といった具合です。美味しさの表現も、甘辛い、甘酸っぱい、旨みがある、歯応えがいい、舌触りがいい、後味がいい、風味がいい、と多彩ですが、激うま、ヤバイ、あるいは、激ヤバ、など強調語を組み合わせる表現が増えました。烈火の如くでも怒髪天でもなく、激おこと言うそうです。


 強さの度合いの表現一辺倒になると、微妙な違いは失われてしまいます。つまり、機微を表現出来なくなります。「雪解けの水 激ヤバし」「蝉の鳴く声 激ヤバし」ではいくら季語が入っていても俳句になりませんね。感動したことは全部「ヤバい」わけですから。片思いだった彼に初めて電話をかけてヤバい、、初めてのデートで手を繋いでヤバい、初めてのキスでヤバい、海岸線をドライブしても、他に好きな人が出来ても、やっぱり彼のことが好きなんだと気づいたとしてもヤバいわけです。


 人目を惹くためには強調というのは大事な要素です。強調するために、大きな声を張り上げたり、赤や黄色など派手な色を用いたりします。大きな車だったり、ジャンボ餃子だったり、激辛ラーメンだったり、あるいは〇〇産△△を用いたフレンチデザートだったりです。テレビを点けると、若手芸人とモデルタレントが大声でやりあっていて、言葉がテロップで強調されています。


 土井善晴先生の「強い刺激は感性を奪う」という言葉に戻ると、今の日本は強いアピールをした者勝ちの、感性を奪う社会、風情を理解し得ない社会になってしまったように思えます。音楽も「愛」「ありがとう」を連呼するような歌詞が増えました。愛や感謝の印象を受け手が感じるように、直接的に「愛」や「ありがとう」というワードを使わずに叙情詩や叙事詩で表現するのが作家です。直接の方が強いアピールになるのでしょうけれど、表現の豊かさ、深さという面では残念に思います。


 自分の、あるいは商品のアピールというのはまさに「エサ」を撒いてるわけですよね。受け手としてはエサに食いついて満足している。土井勝先生の言葉に例えるならば、私は料理を提供したいのであって、

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